プラセンタの歴史

プラセンタは、実は古代から「不老長寿の妙薬」として珍重されてきました。

「プラセンタを捨ててしまうのは人間だけ」と書いたことがありますが、古代の人々は捨てるどころか、「薬」として保存していた形跡があります。

秦の始皇帝(紀元前259~210)は、不老長寿の薬に対して異常な情熱を持っていたとされ、プラセンタを用いたと記されています。
その後は歴代皇帝がプラセンタを用い、軟膏に混ぜて傷薬として使われていたとも言われます。

また楊貴妃(719~756)は、若さと美しさを保つためにプラセンタを愛用していたと言われます。

漢方の世界では、プラセンタは「紫河車」として扱われています。
遠く唐の時代に編纂された医学書『本草拾遺』では、プラセンタは「人胞」、「胞衣」と呼ばれ、はっきり薬として認識されています。

明の時代の医学書『本草綱目』では、プラセンタは「紫河車」の名称で登場し、「心臓、肺臓、腎臓、肝臓に強い」とあります。

また、韓国で1613年に発刊された漢方医学書『東医宝鑑』にも紫河車が登場します。
日本でも、江戸時代の加賀の三大秘薬に数えられる「混元丹」には、紫河車が含まれていました。

さて、日本では、古代の住居跡からプラセンタが見つかっています。
その住居で最も重要な場所のすぐ後ろに、プラセンタを保管した穴があると言うのです。
子どもが大病のときに含ませたのではないかという推測もあります。
この風習が、後にわが子の臍帯を保管するというように形骸化したという説もあります。

そして近代、1930~1940年代ごろに、洋の東西を問わず、プラセンタが本格的に医療の場に登場してきます。

なお、自然分娩に熱心な吉村先生の著書の中には、「フランスのオダン博士が、自分のプラセンタを口に含むと、産後の子宮の収縮が早まると言っているので、自分も食べてみたかった」という妊婦の話が出てきます。

「プラセンタは捨てずに有効活用する」のが自然界の本来の姿なら、現代に至って人間は、改めてプラセンタの恩恵に浴する時代が来ているのかもしれません。

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